ちょっと、どなたか、聞いてくださいませんか? 私は蜂です。頭が混乱して、テンパってます。 「先天性盲ろう」ってわかりますか?生まれつき、視覚と聴覚に障害があるかたのことです。 生まれてから何歳くらいまでに視覚と聴覚に障害がある人のことなのかとか、法律上の定義もまだないそうで、何かあったときに彼らの権利はしっかり守られるのか心配なんです。 私には社会で定義されない人や定義から漏れてしまう友人が沢山いて、心配すぎて、何が心配だったのかわからなくなってしまってテンパっているんです。 明らかに視覚や聴覚が優位に考えられているこの社会で盲ろうの彼らが生きること、あるいは明らかに男性・女性の恋愛と子孫繁栄みたいなことが中心に組み立てられた文化の中で同性愛者や、それが不可能な人が生きること、他にもいろいろありますが、そういった多様すぎる社会の中で、何かを解決しようとすると、そういうことじゃないんじゃないかなって、思うけど、何もできないかと思うと希望がないように感じて、何から考えればいいのか、なぜ考えていたのかさえも、途中でわからなくなって、でも考えたくて、忘れたくもないんだけどついつい後回しになって、自分のことでいっぱいいっぱいの時も多くて。あああ、こんなに一方的に話たら、面倒くさいやつだと思って、あなたはもう離れてしまいますよね。よし、しっかりします。ちょっと時間ください。うん。だめだ、助けてください。もう少しだけそばにいてください。個人的なことであれなんですが、失恋したばかりなんです。なんでモテないんでしょうか。 しかも、さらに私を混乱させるのは、盲ろう者の魅力です。私が出会うのは東京都盲ろう者支援センターに出入りしている盲ろう者たちです。その場所と出会えているという時点で運の良さに加えて沢山の困難を乗り越えてきたサバイバーたちだからなのかもしれません。困難な状況はその壁を乗り越えてどうにか生きようとした人を魅力的にさせる。それが本人の幸せとは関係ないところが世の中残酷だなぁと思う時もありますが。さらに何不自由のない人ほど、その磨き上げられた魅力に翻弄されて嫉妬したりしてさらに明らかに大変な状況にある人を追い込むような態度をとってしまったりする。で、大変な人たちは仕方なく努力する、だからまた魅力が増してしまう。それがモテ・非モテにも繋がっていく。モテるかどうかは風通しの良さにも繋がっていて、いや、風通しの良さが、モテに繋がっているのかな。この部屋には窓がないですよね?だから窓からの光も風も入らない。だから居心地がいいとは言えないかもしれない。でもだから、そよ風にもかき消されてしまうようなささやかな声に耳を傾けるにはいいかもしれません。そうだよ。私みたいな風通しの悪いところにしか育たないキノコだって、きっとあるのに。多様性は認めるけど、一緒にいたいかどうかは別って、、、なんなんだよ!もう!! あ、私、あなたに吐き出せて、少し楽になりました。そして、ようやく自分の役割を思い出しました。ここに展示されている作品について説明させてください。 ここに展示されている作品のタイトルは「このオペラは見えない。それは釣りをする時、魚がいても見えないのと同じ。このオペラは聞こえない。それは朝日が昇る時、地鳴りがしないのと同じ。ようこそ、これからのオペラハウスへ。大海を舞う魚のように、私たちを繋ぐ太陽のように、当たり前の日々を奏で続ける。」です。 もう一度言います。「このオペラは見えない。それは釣りをする時、魚がいても見えないのと同じ。このオペラは聞こえない。それは朝日が昇る時、地鳴りがしないのと同じ。ようこそ、これからのオペラハウスへ。大海を舞う魚のように、私たちを繋ぐ太陽のように、当たり前の日々を奏で続ける。」以上です。 どういうことなんでしょうね。入り口にも書いてあったよね。当時は当たり前の日々が奪われたかのように感じたのかもしれませんね。今の私には、そんな気がしてならない。ううう。ぅぅうぅ。観てみたかったな。それまでの夢が消えたあとの当たり前の日々。そういう事じゃないのかな?当たり前の日々が夢のようだって話?いや、まてよ、見えなくても聞こえなくても、いるよって話なのか?うわぁぁぁん、わかりやすくそばにいて欲しいよぉぉぉおぉ。だめだだめだ。まだ人前だ。 ちなみにこの部屋に吊り下げられているアルミホイルの幕。これは盲ろう者と一緒に作ったそうですよ。ラボメンバーの富塚は、盲ろう者のかたと、そうでないかたが一緒に楽しめるアクティビティを考えて、東京盲ろう者支援センターの「学習会」で発表しているようです。視覚や聴覚に頼らない感覚がメインのアクティビティってどんなものなんでしょうね?アルミホイルの幕の裏側には「学習会」の記録写真やそれに使う道具、プログラムを開発するのに使った物などが置いてありますのでよければご覧ください。 そうだよなぁ。富塚さんのように、私も他人との距離を楽しめたら、フラれなかったんでしょうね。距離を詰めることしか、考えていませんでした。詰めたところで、気づいたときには窮屈なだけってこと、ありますもんね。理想的な距離を決め込んだりせずに、付かず離れず、いや、付かなすぎるのは寂しいから、少しつついたりしながら、たまに寂しくても離れたりしながら、ずっと一緒にいたかったなぁ。いや、一緒にいると言えばいるのか?今は離れているだけ?いや、離れたいって言われたのにまた期待しちゃう?でも、それって暴力?ダメなの?ダメだよね。あーなんでこんなことになったんだ。共に生きていきたかっただけなのに。なんで難民はかわいそうと言ってたのに、私はかわいそうじゃないんだろう。かわいそうとかじゃ、続かないのかな。あぁ、さっき落ち着いた気がしたのに、またソワソワしてきた。思考停止ボタン、どこですか?うううう。ううう。